Fade to grey

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ヴォイスとパースペクティブ

詩人が詩を通して何を伝えたいか、何を残したいと思っているかは、そのときどきで違いがあるにせよ、突き詰めれば願いはひとつで、おそらく「錆びついてしまった言葉の力を取り戻したい」ことだと思います。 言葉には感情を定義して、それを共有する強い力があり、人は基本的には言葉なしでは考えることもできない。悲しいという感情が先にあって悲しいと思うのではなく、悲しいという言葉が悲しみを理解させてくれるわけです。 ニーチェはそれをこう語っています。 概念に言語のラベルを貼ったのではない。 言語が概念を創造するのだ。 我々は言語の向こうに真理があると考える だから真理に達することができないのだ。 言葉は怠け者で、すぐに楽をしようとするから、すべてを言わなくても意味だけが伝わるようになってしまう。うん、あの感じねって、高校生たちが好む言い回しみたいに。 機能だけを考えれば、それは進化かもしれない。やがてローカルなルールが生まれ、感情が言葉になったときにこぼれていくものには目を向けなくなってしまいます。 TwitterとLineでやりとりできるような感情だけが全てなら、詩人の棲む場所はこの世界には存在しません。 そこで、ふだん使っていないところに揺さぶりをかけ、言葉が本来持っている機能を蘇らせることにより、私たちが見失っているものを取り戻させようとするのが詩人たちのたくらみであり、詩の機能ではないかと思います。 Massive AttackとElizabeth Frazerによる「Silent Spring」という曲があります。 これには歌詞がありません。正確に言えば”歌詞のようなもの”はあるけれど、

旅の途中で

いいかい、写真の発明以後、絵画というものはまるで様変わりしたんだ。もう描くための理由が昔と同じというわけにはゆかないんだ。 これはフランシス・ベーコンが語った言葉です。 彼は人間に内在する不安をテーマに描いたとされ、20世紀を代表する画家のひとりですが、逆に見れば写真が存在していなかったら彼のような画家は生まれなかったかもしれません。 キメラが成長するためにはべロロフォンが必要なんだよ、と「ミッション・インポッシブル:2」の冒頭でもありました。写真と絵画は対立するものではないと思うけれど、それでも。 まったく同じ条件で実現するのは無理だとわかっていますが、もしフィルムだったら何が違ったか、という仮定をすることに意味は残されていると思います。 アレック・ソスが語っているように、日本ではセンチメンタルのような感情を写真に持ち込んで使うことが許されていて、とくに銀塩についてはノスタルジーやセンチメンタルな気持ちでそれを語ってしまいます。 バルトの「貴金属の変化によって愛するものを永遠へと変える」というのがその究極。 でもトーマス・ドヴォルザックが語ってくれたように、失ったものなど何もないよ、便利なことばかりさ、という考えだってあるはずです。巨大なプリント、編集作業、撮影条件に対するタフさ、トーンマッチング、いずれもデジタルの恩恵だから。 もし失ったものがあるとしたら、それはその人の心に責任があるんだ、と言えなくもない。 僕が不思議に思うことがあって、エンジニアとかデザイナーみたいなテクノロジーの先端にいる人たちは、古い音楽を好む傾向があるように思います。それは反動なのかもしれないし、

「HOME」について語るとき我々の

写真の道を志している、もしくはいつか写真と仕事で関われたらと願っている人に、捧げて書きます。 僕は、この仕事を始めたときからフリーランスなので、どんな仕事でも何かしら「僕である意味」があったのだろうと思っています。 自分ではそれが何かは自覚できていなくても、誇りと責任はもってやってきました。あのヨーガン・テラーでさえ、「納得のいかない仕事に、自分の名前が添えられて発表されるほど辛いことはない」と語っていて、もちろん仕事にするというのはそういう辛さもあります。 好きで読んでいた本、たくさん見てきた映画、絵画、ファッション、写真よりも長く一緒にいた音楽、すべてが今の僕が仕事をしていくうえですごく大切な財産で、どれひとつとして無駄なものはなかったと言い切れます。 それでも「これが天職だな」とか「オレにしかできないことだ!」と思ったことはなかったです。 でもさっき「HOME」展を見ていて、たくさんの関係者と話すことができて、ふと思いました。 僕はフジキナのとき登壇者としてプロジェクト発表の場にいて、過去にトークショーをやったことがあるおかげでマグナムと縁があり、X RAW STUDIOのビデオ制作のときに動画チームと関わりを持てていて、今回の参加作家ほぼ全ての代表作(あるいは作品のスタイル)を知っていて、純粋にファンとして楽しみにしていて、しかもXユーザーと直に接しています。 体験の貴重さを考えれば、僕にしかできないことはあると思う。 僕は写真が、アプリオリに(つまりは先天的に)価値を持っていて、見る人はその滋養を吸収するのだ、という考えには賛成できません。見る人がコミットして、その写

マグナムを語る、への道 #3

今回の16人を選んだ理由に関して、主催側は”多様性”を挙げていました。 これは重要なことです。北米、西欧、南米、アジア・・・、世界地図を塗り分けるように写真家を配したわけではないでしょうが、作品のスタイルだけでなく、出自に関しても幅広い選択となっています。 ぼくは複数の声と複数の視点が、今回の企画展を掘り下げて見るときの軸になると考えています。声のほうについてはトークショーで触れる予定があるので、ここでは複数の視点について。 トーマス・ドボルザック(来日します。パーティーで会える予定)という写真家がいて、この名前から作曲家のドボルザークを連想する人は多いでしょう。ドヴォルザークはチェコ出身で、アメリカに移住したときにその印象から「新世界より」を作曲しました。 トーマスは、父がチェコスロバキアから追放されて難民になり、グルシアに住んだ時期の体験について、作品に添えて書いています。 スイスから夢を抱いてアメリカにやって来たロバート・フランクが、失望から「The Americans」を撮ったように、移民のような「引き裂かれた複数の視線」が現代のドキュメンタリーに深みと奥行きを与えるのは間違いありません。 日本にずっと住んでいると、生まれた国と、育った国と、いま住んでいる国が別々で、それぞれで育まれた視線が対立するってこと、完璧には理解できないですけれど。 今回は参加していませんが、マグナムにジョセフ・クーデルカという写真家がいて、チェコスロバキアの出身で、代表作のタイトルが「Exiles」という、今回のテーマにもってこいの人がいます。複数の声と複数の視点を、持たざるを得なかった。 フ

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