写真を見る悦び Ver.1.06
アーノルド・ニューマンの作品をじっくり見る(熟読にちかい)ことができたのは、この機会を与えてもらったおかげなので、お世話になった人たちに感謝しています。
その恩返しって何かなと考えたとき、自分が得たものを今度はより多くの人に広めて還元することだと思います。
ワークショップの詳細がこちら。
KYOTOGRAPHIEは、新しい才能の発掘をテーマに掲げていることもあって、展示方法やキュレーションなど常識に囚われることなく、見て回るのがとても楽しかったです。
一般的な傾向として、アート系ギャラリーは地価の安い場所にできて、そこに集まる人達がそのエリアに活気を与え、それに目をつけたアパレルや飲食の店が増え、多種多様な人が多く集まるようになって、やがて地下が暴騰し、さらに外側にギャラリーが移転していく・・・というのが一般的。
パリのマレ地区、ロンドンのブリックレーンなど。
そういったところを回ろうとすると、観光とはまったく違うベクトルで街をめぐることになるので、景色の見え方も違うし、ふだんは通らない道に発見があったり、アートに触れることで自分に変化が起こり、世界の捉え方が変わることもあります。アートの最大の効能とは、新しい目を手に入れることだから。
そのダイナミックさは、紛れもないアートの喜びであり、インターネットで得る知識との違いです。
とくにKYOTOGRAPHIEの場合は、そこに絶妙に京都という街が絡みついていて、ふたつのギャラリーの間を近道しようとしたら錦市場に出たり、すごく楽しかったです。
二条城のアーノルド・ニューマン展は今回の目玉でもあって、さすがに場所もいいし、展示も美しく、そこで過ごす時間そのものが至極の体験でした。
今の時代にアーノルド・ニューマンを見る意義として、まずはポートレートのあり方について考えられること。「ポートレートとは何を撮るものか?」みたいな。
あとはアーノルド・ニューマンを介して、モダンアートの作家たち(とくに1950~1960年頃にニューヨークで活躍したアーティスト)を相関的に見る楽しさ。他にもいろいろあります。
そういった喜びを、なるべくわかりやすいかたちで話せたらと思っています。
写真はすごい速さで消費されているから、古典作品から「見る楽しさ」「撮って残す意味」みたいなものを再確認するべきだと、ずっと考えていました。
そういった機会が少なすぎると思います。理由はいろいろ考えられます。長く関わってきたから事情みたいなものもわかります。それにしたって少なすぎる。
哲学の命題にある「人のいない森で倒れる樹は音を立てるか」みたいなことでいえば、価値というのはそれを認める人たちがいてこそ生まれるもので、マイナスイオンみたいにそこに自然発生しているものではないと思います。
とくに写真は、音楽や文学のようなアーカイブが形成されておらず、過去の名作にアクセスするのが難しい(偶然の出会いに頼らざるをえない)点があり、意識して古典の読み直しがあるほうがいいと個人的には考えています。
世界の名作百選なんて企画、まずないですよね。
そのためのテクストに誰のどんな作品を選んだらいいのか?
アーノルド・ニューマンのポートレートは絶好だと思います。資料を整理していて確信しました。
写真を見るだけでなく読む、という提案は僕もやったことがありますが、こんどは「写真の声を聞く」みたいな感じの提案もできたら。
詳細と申込はこちら。