グッド・ウィル・ハンティング
菊地成孔さんが、ラジオで「人は音楽を聴くとき、過去のものだと思っているけれど、未来からもそれはやってきていて」と話していた記憶があります。
芸術作品と循環記憶が、いかに心を揺さぶって、この世界に存在して、自分と関わっているか、という話。
仕事のため確認が必要なことがあり、「グッド・ウィル・ハンティング」を見ました。
いい映画だというのは初めて見たときから思ったし、あらすじについて間違って覚えているところはなかったです。ラストシーンとか、誰かが知り合うきっかけとか、物事の順番とか、人は都合よく記憶していくものらしいけれど。
ストーリーを地で行くというのか、この頃はほとんど無名だったマット・デイモンも、すこしだけ顔が売れ始めたベン・アフレックも、次のステップのためのヒット作が必要だったはずで、自分たちが書いた原作が自らのキャリアの扉を開いたということになります。
ガス・ヴァン・サントは化学変化のための溶媒みたいな役割をしていて、主張しすぎることなく、二人の未来ある若者と、そこにバトンでも渡すように自分がキャリアで汲み取ってきたものを与えるロビン・ウィリアムスを、ひとつにまとめあげています。
この映画の時点から現在を見ると、ガス・ヴァン・サントはより自分らしさを極めていく方向に舵を切り、カルトヒーローとまではいかないものの、がっちりした世界観を築き上げてマイペースで作品を作り続けているように見えます。よく知らない誰かのためには映画を作っていない。これは現代の映画監督にとって、とても恵まれたことに思えます。
ロビン・ウィリアムスと、主題歌を歌っていたエリオット・スミスは、心に深い影を持っていて、どちらも自殺してしまいました。
この映画のなかで、救われたかったのは誰か?
そしてこの映画は誰を救ったのか?
初めて見たときは他のことに気を取られていて気づかなかったけれど、マット・デイモンがロビン・ウィリアムスと出会ったばかりのときにパイロットのジョークを言うシーンがあって、自分で経験したのかって聞かれると「一人称で話したほうが面白いだろ」と答える。ロビン・ウィリアムスはそのジョークを酒場の仲間に話す(もちろん一人称で)。
これはこの二人にとって、すごく意味の深い場面だと思います。ランボー教授も含めて。それぞれのパースペクティブから見た彼らの関係性があり、この映画も誰かの視点からは描いていない。
NSAについてマット・デイモンが怒りを込めて語っている場面が、それを象徴しているようです。1997年というと、軍事や政治に関しても、語るのが難しい時代だったと思うのだけれど。
この映画が大ヒットして多くの賞を獲り、ベン・アフレックとマット・デイモンはハリウッドを代表するスターとなりました。エンターテイナーでありながら、しっかりと良い映画も選んで、確固たる地位を築いているように見えます。
どちらも映画のプロディースなどもしているし、バリバリのインテリだし、いつか彼らが晩年に映画監督になって、自らシナリオを書き、ほとんど無名の俳優を抜擢して「リバーランズ・スルーイット」みたいな作品でも撮ったらいいな・・・、などと想像してしまいます。ロバート・レッドフォードとブラッド・ピットみたいな、もうひとつの物語。

ひとつだけ記憶が違っていたのは、スカイラー(彼女の役)が旅立っていくのがカリフォルニアで、乗る飛行機がサンフランシスコ行きだったところ。