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旅の途中で

いいかい、写真の発明以後、絵画というものはまるで様変わりしたんだ。もう描くための理由が昔と同じというわけにはゆかないんだ。

これはフランシス・ベーコンが語った言葉です。

彼は人間に内在する不安をテーマに描いたとされ、20世紀を代表する画家のひとりですが、逆に見れば写真が存在していなかったら彼のような画家は生まれなかったかもしれません。

キメラが成長するためにはべロロフォンが必要なんだよ、と「ミッション・インポッシブル:2」の冒頭でもありました。写真と絵画は対立するものではないと思うけれど、それでも。

まったく同じ条件で実現するのは無理だとわかっていますが、もしフィルムだったら何が違ったか、という仮定をすることに意味は残されていると思います。

アレック・ソスが語っているように、日本ではセンチメンタルのような感情を写真に持ち込んで使うことが許されていて、とくに銀塩についてはノスタルジーやセンチメンタルな気持ちでそれを語ってしまいます。

バルトの「貴金属の変化によって愛するものを永遠へと変える」というのがその究極。

でもトーマス・ドヴォルザックが語ってくれたように、失ったものなど何もないよ、便利なことばかりさ、という考えだってあるはずです。巨大なプリント、編集作業、撮影条件に対するタフさ、トーンマッチング、いずれもデジタルの恩恵だから。

もし失ったものがあるとしたら、それはその人の心に責任があるんだ、と言えなくもない。

僕が不思議に思うことがあって、エンジニアとかデザイナーみたいなテクノロジーの先端にいる人たちは、古い音楽を好む傾向があるように思います。それは反動なのかもしれないし、革新という名目で大事なことを見失わないように防衛本能のようなものが働いているのかもしれません。ずっと数字とモニターを見ているから、プライベートくらいはそこから離れたいのかもしれない。

シーケンサーが持ち込んだ革新を、音楽業界の人はどう思っているんだろうと考えていて、この記事を見つけました。すごくよい記事だと思います。

https://note.mu/mutsumu/n/n1b2807461045

いっぽうでサニーデイ・サービスの曽我部さんは、こう語っています。

「声のエフェクト――コンピューターでかけられるエフェクトってすごく大事だと思い ます。カニエ・ウェストの『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』(2010年)のオープ ニング(“Dark Fantasy”)を聴いて、〈いまのコンピューターだとこれができるんだ〉 と思って。あの表現って聴いたことがないものですよ。〈ああ、コンピューター最高 だな。そういうことをやるべきだな〉と思いましたね。だから、あれ以降、僕はオー トチューンももちろん、エフェクトや声の変調にすごく惹かれてます」(Mikikiインタビュー記事より)

曽我部さんはラップやヒップホップが好きで、そこには自由があると考えていて、もし自分が今の時代に十代だったらきっと夢中になったんじゃないかと、ずっと以前から語っています。

こういったこと考えていたとき、小林克也さんが現代のラジオDJの役割について、「もうみんなストリーミングで音楽を聴くような時代にディスクジョッキーなんて必要ないと言えばそれまでだけれど、例えばこのギルバート・オサリバンの「Alone Again」みたいに、日本では消費されまくった曲でさえ、ちょっとした言葉を添えて送り出してやることで新しい生命を持つこともあるんだ(要約)」というようなことを話していました。

今回の投稿に結論などなく、収束していく場所もありません。

ただ覚悟を持って、いつもそこから逃げないで向き合い、十全に楽しみ、誰かが苦しみながらも喜びを感じて作り出したものから、滋養と勇気をもらい、分かち合い、みんなそこだけは同じこと言っているけれど「ただ消費されていくってのはよくないな」と思いながら、毎日を生きられたらと願います。

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