ヴォイスとパースペクティブ
詩人が詩を通して何を伝えたいか、何を残したいと思っているかは、そのときどきで違いがあるにせよ、突き詰めれば願いはひとつで、おそらく「錆びついてしまった言葉の力を取り戻したい」ことだと思います。
言葉には感情を定義して、それを共有する強い力があり、人は基本的には言葉なしでは考えることもできない。悲しいという感情が先にあって悲しいと思うのではなく、悲しいという言葉が悲しみを理解させてくれるわけです。
ニーチェはそれをこう語っています。
概念に言語のラベルを貼ったのではない。
言語が概念を創造するのだ。
我々は言語の向こうに真理があると考える
だから真理に達することができないのだ。
言葉は怠け者で、すぐに楽をしようとするから、すべてを言わなくても意味だけが伝わるようになってしまう。うん、あの感じねって、高校生たちが好む言い回しみたいに。
機能だけを考えれば、それは進化かもしれない。やがてローカルなルールが生まれ、感情が言葉になったときにこぼれていくものには目を向けなくなってしまいます。
TwitterとLineでやりとりできるような感情だけが全てなら、詩人の棲む場所はこの世界には存在しません。
そこで、ふだん使っていないところに揺さぶりをかけ、言葉が本来持っている機能を蘇らせることにより、私たちが見失っているものを取り戻させようとするのが詩人たちのたくらみであり、詩の機能ではないかと思います。
Massive AttackとElizabeth Frazerによる「Silent Spring」という曲があります。
これには歌詞がありません。正確に言えば”歌詞のようなもの”はあるけれど、それはいまある言葉のどれにも当てはまらない。
言葉が言葉として定義されるためには、分節を持っていることとコードが必要なので、やっぱり言葉とは言えません。感情を音に変えたもの。
だからこの曲が本当は何を歌っているのかはわからないけれど、そこにどんな感情が存在しているかは、聞き取ることができます。抽象画で、何が描かれているかはわからないけれど、特定の感情に働きかけてくるように。
これはヴォイスの力です。声、声の響き、という意味だけではなく、心の置き場所がそこに現れているから。
写真はシャッターごとに、新しい言葉を生成しているようなものだと、個人的には考えています。
これについては半年くらい前の投稿「次世代のGRに望むこと」を参照してください。
たとえ私たちが木製や金星に行ったとしても
もし同じ感覚を維持していれば
その感覚は、私たちがそこで見た一切のものに
地球上のものと同じ外観を与えてしまうだろう
ただひとつの本当の旅行
若返りの泉に浴する唯一の方法
それは新たな風景を求めに行くのではなく
別の目を持つこと
マルセル・プルースト