パリ残像 精読
【木村伊兵衛「パリ残像」精読】 2018/11/05
最初に見た印象は、歴史的な事実として知っていたことを、その現地に赴いて初めて実際に目で見たという感覚でした。 ゴダールの映画などで見ていた50年代のパリを、スナップを得意にしていた日本の写真家が初めての渡航先として選び、憧れの眼差しをもって捉えた写真たちで、すでに写真集で何度も見ていたけれど、その知識と事実が重なる瞬間。例えるなら、生きて歩いているフランツ・フェルディナンドを見るよう。あれ、ぼくはこれから起こることを知っているぞ、と。 木村伊兵衛さんの写真の記憶と、50年代のパリについての知識と、それらが合致して共鳴しました。
その写真集は、初めての僕の個展にきてくださったお客さんが、「私はもう十分に見たから、これからはお兄ちゃんみたいな人が持っていたら、何度だって見られるからさ」と言い、ぼくにくれたものです。過去から託された思いがそこにはあった。
この写真展を推薦しておいた友達から、「すごく良かったから、絶対に見るといいよ」と連絡があり、やれやれ、と思いました。嬉しかったけど。 最後にクイズが添えてあって、「木村伊兵衛さんの肖像をある有名な写真家が撮っていて、最後の写真になっています。誰でしょう?」だって(笑) 街を案内してくれたのはドアノーで、アッジェなどとも親交を深めたけれど、写真としては何と言ってもブレッソン。それはもうブレッソン。
写真を撮られることを極端に嫌ったブレッソンを、さりげなくスナップしたことは木村伊兵衛さんの有名なエピソードになっているけれど、カウンターパンチみたいにブレッソンが撮った木村伊兵衛さんの撮影風景は、愕然とするくらい見事なスナップ写真です。
1950年に、すでに日本写真家協会の初代会長に就いていたけれど、日本の写真は世界から大きく遅れていたから、苦労や思うところもあったのでしょう。 "こちらに来てつくづく思うのは、写真家の思想と骨格の問題である。それを考えることができただけでも、ここに来られてありがたかった”と日記にあります。 最初にこれ読んだとき、思いがこみ上げて来てむせるようになって、残りの写真が見られませんでした。
現在から歴史的に俯瞰して見るなら、1954年にまだ写真の中心はパリだったけれど、スタイケンがヒューマニズムを掲げて「世界はひとつだ!」 とプロパガンダ的に「ファミリー・オブ・マン」を開催する前年。 それに反発するようにロバート・フランクとウィリアム・クラインが登場して、経済だけで亡く写真もアメリカを中心としたパースペクティブに変わってゆく、ほんとうにギリギリのところ。 名取洋之助さんはドイツからフォトジャーナリズムを翻訳したようなものなので、森鴎外の時代から夏目漱石へ、みたいな感じでしょうか。いや、漱石もヨーロッパだな。うまく例えられなくてごめんなさい。
1954年に、木村伊兵衛さんはニコンSとライカを持って渡仏して、途中のローマでニコンが盗まれ、ほとんどライカで撮ったそうです。 1954年がライカM3の発売年であり、その登場によって日本のカメラメーカーは「こんなの追い越すの無理だ」と諦観して一眼レフに技術を集中させ、写真よりも先にカメラ大国として世界に認められるようになります。
ここしかないという54年と55年の、歴史的な転換期の記録でもあります。
ここから二度目の感想。
木村伊兵衛さんは、名実ともに日本を代表する写真家になり責任もあったはずで、仲間が集めてくれた7,000ドルと感度10のフィルムを持って日本を発ち、初めて見るパリの光と人々、なによりも世界を代表する写真家たちの志の高さに心を打たれ、憧れを持って撮った写真たちなのだな、ということを強く感じました。 漱石がロンドンに赴いたとき、自分が知らないこと、学ばなければならないことがあまりに多く、でも自分にその時間が残されていないことを考え、心を病んでしまったわけですが、それとは違う意味での焦燥感のようなものはあったのかもしれないと思います。
今回はインクジェットによるリプリントだそうですが、写真からはちゃんと時代の匂いが感じられ、フィルムを託した富士フイルムはその写真を気に入ってくれなかったそうだけれど(笑)、後日談で木村伊兵衛さん自ら「いまのフィルムじゃこうは撮れませんよ」と書いています。
フォトコンテストに出して入賞するような写真じゃなく、でも写真ってこういうものだよなと、わくわくさせる力があります。 写真は完全に消費されるモードに入っていて、見るよりも生産されるほうが圧倒的に多くなっているけれど、古典の名作に触れる機会もより多くなっていくといいなと願います。 webギャラリーなんかじゃ、絶対にこんなこと考えるほど心動かされなかったはずだから。