写真にまつわる退屈な話
前回のポスト
http://www.yuki187.com/single-post/2017/06/12/ロックにあって写真にないもの?
に書いたように、ロックには相関関係を見出すことができて、それを理解することによって大海のなかで泳ぎ方をおぼえたような開放感と喜びを感じることができます。
そこに書いた記事を、今度はRobert Glasperを中心としたパースペクティブで俯瞰すると、血が繋がっている親とは知らずにRadioheadと交わり、父である古典的なJAZZの枠組みを壊そうとしている姿に、オイディプス・コンプレックスを当てはめて読み解いていくこともできそうです。
ロラン・バルトあたりの構造主義者や、ジジェクがヒッチコックを用いてラカンを読み解こうとしていたような、知の挑戦として
写真新世紀の審査評として、柴田敏雄さんが以下のようなことを書いていました。
まず世界的な趨勢のお話として、どの展覧会を見ても、同じような写真ばかりが展示されるようになってしまったと思うんですね。たとえば、ベッヒャー系のトーマス・ルフやアンドレアス・グルスキーの作品なのかなと思ってクレジットを見てみると、作家は違う人だった、ということが多いのです。つまり、いくつかの確立された分野があって、そこにあてはまるものしか出てきていないという印象があるわけですが、今回の審査会でも同じような傾向にあると感じました。
若い人は、何に出会ってもはじめてのことが多くて、それを新しいものだと思いこんでしまうことがある。でも、美術館に行ったり、歴史の知識をある程度知っていくと、それが本当に新しいものか、すでにあるものの焼き直しなのかということがわかってくると思います。それと同時に、自分の内面や、やっていることをしっかりと見つめることが必要だと思うんです。そうするとことで、知識で得たことではない、他の人とは違う部分を、むき出しにしていけるんじゃないでしょうか。
全文(http://global.canon/ja/newcosmos/closeup/toshio-shibata/index.html)
これを”バルトで読む”と、交換可能なエクリチュールは、ユニクロで服を買うような感覚で手に入れることができるし、ましてや情報がこれだけ溢れていたら、それを自分のものにするのは難しいことではないでしょう。そこでスタイルと呼ばれてありがたがられているものは、2980円、週末になれば1980円で手に入ってしまうものかもしれない。そうして安易に手に入れたエクリチュールでも、やがては外見だけでなく内面にまで影響を与えていく。それでスタイルが身についたと誤解してしまう。
でもほんとうのスタイルってそうじゃなくて、生まれ持って授かったものと、それまで生きてきた人生のすべてが積み重なってできたものだから、そのふたつを混同しちゃいけないと思います。
それは見るほうにも責任があって、エクルチュールだけに注視して、それを評価して、じきに消費していってしまうから。
でも音楽は、とっくにその問題に直面していて、細野晴臣さんと中沢新一さんの対談的ワークショップ「やがて生まれてくる音楽のために」では、まさにこれがテーマになっていました。
エレクトロニカの実験的挑戦から、Ovalが「現代はテクノロジーの恩恵によって得られたかりそめの自由であり、やがて自分たちが作っている音楽はテクノロジーの限界による制約を受けるようになるだろう」と示唆して、電子的音楽は内部から崩壊していくことになった。
そのあとに音楽は何を信じていけばいいのか・・・というテーマは、今の写真にぴったり当てはめて考えることができると思います。
他の分野から、何も学ばないってところ、写真のいちばん深い闇だと個人的には考えています。